仏事ことばあれこれ |
普段何気なく使っていることばの中に、仏教語の中から出てきているものが数多くあります。 その中でもよく使われているものを順次紹介、説明をしていきます。時々覗いて見て下さい。 |
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〈内容は下にあります〉
29【会釈】 28【出世】 27【道場】 26【道楽】
25【しょっちゅう】 24【ガタピシ】 23【堕落(だらく)】
25【しょっちゅう】 24【ガタピシ】 23【堕落(だらく)】
22【足を洗う】 21【あきらめる】 20【挨拶(あいさつ)】
19【退屈(たいくつ)】 18【退治(たいじ)】
17【有頂天(うちょうてん)】 16【安心(あんしん)】
15【有り難い(ありがたい)】 14【融通(ゆうづう)】
13【億劫(おっくう)】 12【ひどい】 11【後生(ごしょう)】
10【相続(そうぞく)】 9【千秋楽(せんしゅうらく)】
8【ウロウロする】 7【学・無学(がく・むがく)】
6【愚痴(ぐち)】 5【入院(にゅういん)】
4【往生際(おうじょうぎわ)】
3【達者(たっしゃ)】 2【皮肉(ひにく)】 1【不思議(ふしぎ)】
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29【会釈】(えしゃく)
私たちは、人と出会う時「おはようございます」「こんにちは」と頭を垂れてお辞儀をして挨拶をします。
このお辞儀を会釈と呼びますが、もともとは「和会通釈/わえつうしゃく」という熟語が省略された言葉です。
仏教の教えには、1見すると相違した教えを説く場合があります。
そのような表面上は互いに矛盾するように感じる教えを照らし合わせ、筋が通じるようにし、根本にある真偽を明らかにすることを
「和会通釈=会釈」と呼びます。
現代の会釈はこのことから転じて、場をとりなし、事楕を考慮して気を配り、相手の心を推しはかって応対することで、人間関係がスムーズにいくような『潤滑剤』のようなものです。ただ「頭を垂れる」という行為だけでなく、背後にある「相手のことを思いやる気持ち」にこそ想いをよせたいものですね。
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28「出世(しゅっせ)』
一般には出世といいますと、仕事を頑張り役職に就くこと、
または成功して名を上げることです。
しかし、仏教での出世の意味は幾つかあります。
お釈迦様が、私たちに教えを伝え人々を救うために、
人間の姿を仮の姿として「この世に出現する」こと、
世俗を離れて仏遵の道に入ること、
つまり「世間を出る」こと、などがあります。
それらが転じて、僧侶が高い位に昇ったり大寺院の
住職となることを意味するようになりました。
後に一般にも広がり、立身出世のような出世の意味になったのでず。
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27【道場/どうじょう】
「道場」というと「道場破り」という言葉もある通り、剣道や柔道などの武芸の稽古場を連想する人が多いでしょう。
しかし、元々はお釈迦様が悟りを開いた所を「道場」と呼んでいたのでず。それが転じて、仏道修行をする場・仏の教えを説く場という意味になりました。
今では、武芸の稽古場も道場と呼ぶようになりましたが、それは武芸の稽古が単なる技術取得だけでなく、精神面の強化につながる「修行」に近かったからです。
しかし、よくよく考えてみると、武芸の道場だけでなく、私たちの生きているこの世の中、つまり私たちの日常生活こそ精神面の強化に繋がる修行の場とも考えられます。
ある決まった特定の場所ではなく「今」、「ここが」、まさにあなたの「道場」なのです。
26【道楽/どうらく】
「道楽」というと、近年では生業(なりわい)以外の趣味などに熱中する様子を指し、「道楽息子」「道楽者」というように、イメージが良くありません。
しかし、「道楽」を文字通り読あと「道を楽しむ」となります。仏教では道楽を「ドウギョウ」とよみ、悟りへの道、つまり修行を親しあという意味合いです。法華経にも「道を以て楽を受く」とあるように、辛い仏道修行も、これに専念ずることでゆくゆくは悟り至るものです。
人生という道も山あり谷あり、平坦な道もあれば、険しい道もあります。辛い事を乗り越えて、後々振り返った時、己の成長に納得できるような日々を送りたいものでず。

25【しょっちゅう】
「A君はしょっちゅう居眠りをしている。」
人の癖や性格行動などに使い、「常に」「終始」という意味で使われます。どちらかというと悪い意味で使われることが多いようです。
お釈迦さまは悟りを開かれた後、弟子達に様々な教えを説かれ、「この教えを伝え弘めなさい」と諭されました。そして、「伝える際には『初め』も『中頃』も『終わり』も善く、正しく説きなさい」と言いました。(法華経序品第一「演説正法、初善、中善、後善」)。
もうおわかりの事と思いますが「しょっちゅう」ま「初中後(しょちゅうご)」が省略された言葉です。元々は大変いい意味の言葉なので是非とも「A君はしょっちゅう周りに気配りをしている」のようにいい意味で使いたいものです。
〈静岡県中部布教師会資料より〉
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24【ガタピシ】
機械などが古くなって調子が悪くなった時によく使う言葉です。最近はあまり聞かなくなりましたが、建て付けの悪い扉も「ガタピシ」と言ったりもしました。
「ガタピシ」は「我他彼此(がたひし)」という言葉から来ています。「我」と「他」、「彼」と「此」が対立して、調和がとれず、物事がうまく噛みムロわない、そんな様子の全てが、この言葉で表されるのであります。
この世のすべての存在や出来事は、お互いに関係し合い、支えあいながら成り立っています。私は私、お前はお前と、勝手気ままに自由な行動をとれば、その調和やバランスが崩れてしまいます。両極端にならず、他人を思いやり、スムーズな人間関係をつくれるよう心掛けましょう。
〈静岡県中部布教師会資料より〉
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23【堕落(だらく)】
先ず、「堕」の字ですが、これは土がくずれ落ちる意味で、古来〈高いところから低いところに落ちること〉の意で使われていました。
熟語の「落下」と同じように物理的に、上から下に落ちるということです。
それが転じて仏教においては、「仏の救いの手からこぼれ落ちる」とか、「得意の絶頂(仮の悟りの世界)から突き落とされる/芥川龍之介「蜘蛛の糸」」ということなのです。
有頂天(17)にならず、いつもありがとう(15)の気持ちを忘れず、堕落(23)することなく、安心(16)した暮らしをしたいものです。
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22【足を洗う】 |
好ましくない行ないをやめて、善い人となり堅気になる。
そんな時「足を洗う」と言っています。
昔インドの托鉢僧は、素足で托鉢して歩き、お寺にもどると足を洗ってから
修行の場に入って行きました。
世間を歩きまわることと、お寺で修行することとは、二つの対照的な行動
です。足を洗うという行為は、迷いの世界である世間から、救いの世界に住みかえるスイッチの役目をしているのです。
一般的な意昧での「足を洗う」という言葉も、最初はこの不安の世界から
脱却するということが、概ねな意味ではなかったかと思います。
泥棒をやめ、暴力団をやめ、ぬれ手にあわの商売をやめる、これらのものから離れることは即ち不安やうしろめたさ、重苦しさからも離れることであります。
足を洗うということは心を洗うこと、よく懺悔してすべての罪過を洗い落せ
ば、この迷いだらけの世間を抜け出ることも可能でしょう。
皆様方も、菩提寺にお参りに行くとき、観光でいろいろな寺を訪ねたとき、門をくぐる際にはどうぞ足を洗った気分で、心を切り替えてお入り下さい。
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21【あきらめる】 |
「あきらめる」という語は、通常消極的なことに多く使われておりますが、そうではなく、本来は積極的な前向きの意昧なのです。
物の道理をしっかりとらえ、原因、結果をあきらかにすること、これが仏教本来のあきらめるなのです。物の道理が分かり、なぜそうなっているのかがはっきりすれば、迷うことなく、執着することもなくなる、「あきらめる」となるわけです。
決して断念するのでもなければ放棄するのでもありません。
あきらめるを漢字にすると「諦」とか「明」になります。これは、つまびらかにする、あきらかにするという意味の字です。
世俗的なとらえかたでのあきらめではなく、本来的な「あきらめる」の意味を理解し前向きな明るい日々を過ごしください。 |
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20【挨拶(あいさつ)】
私たちが暮らしてゆく中で、挨拶は非常に大切なことです。
もし挨拶というものがなかったら、用件のみのなんとぶっきらぼうな会話になってしまうことでしょう。
[お早うございます」 [ありがとう」「失礼します」 「すみません」 「お休みなさい」 お互いに挨拶を交わすことで、人とのコミュニケーションがスムーズにいくのです。
揆拶の「挨」は〈せまる、そばにくっつく〉の意味、[拶」は〈ぎりぎりに近づく、すりよせる〉の意味で、はじめは禅宗のお坊さんの問で使われた言葉です。
禅宗の師といわれる方が、雲水(修行僧)と問答をして悟りの度合いを試すことを「挨拶」といいました。そばに近づき声をかけ、その返答によって悟りの深浅を計ったのです。それが転じて、今日では人と人が接する時に交わす言葉ということに変わってきたのです。
挨拶は、人との触れ合いの中で交わされるわけですが、一体二人のうちどちらが先に声をかけたら良いのでしょうか。
本来的な意味からいえば、「心の修行のできている人/師」から、「修行中の人」に声をかけるということですから、偉い立場人から先に声をかけるのが本来の挨拶ということにないります。
さて、日頃の貴方はどうだったでしょうか?
お互いに競争で挨拶をしあえば、家庭も世の中も一段と明るくなるのでは・・・・。 |
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19【退屈(たいくつ)】
これまた通常使っている意味とは少々違っている。
日頃使われている意味としては、「やることもなく暇であきあきする」ということ。
しかし本来の意味は、「仏道修行に疲れ、苦しさ・難しさに負け、精進しようとする気持ち・気力を無くしてしまうこと」、をいった。
「退屈」という言葉(本来の意味で)が残っているということは・・・
仏道修行者の全員が頑張りやで、どんな苦しい修行にも耐えた、信心強情な人ばかりでは無かったということでしょうか。
〈何か”ホット”したような気になってしまったが、いやいやそんなことではと気を入れ直す我であった。〉
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18【退治(たいじ)】
現在の使われ方としては、「悪い奴を退治する」とか、「悪い病気を退治する」とか使われている。
が、もともとの意味としては、仏道修行の妨げとなるものを断ち切ること、煩悩(人の根本的な悩み・欲求)などの障害を無くすことをいった。
漢和辞典を引くと、「退治・対治」と2通りの字が出てくる。昔は「対治」の方が使われていたようだ。
台所にて炊事中にゴキブリが出てきて、「キャーツ」 これをやっつけても本来的には「退治」とはいわない。
しかし、仏道修行をしているときに出てきて、その修行の邪魔をしたので、やっつけた、ということとなれば、本当の意味での「退治」ということである。
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17【有頂天(うちょうてん)】
〈いま、「有頂天」という映画が上映されていることもあり、この言葉を取り上げてみた〉
仏教では十界(じゅっかい)といって、10通りの世界を説く。下は地獄の世界から上は仏の世界まである。〈地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏〉
我々が生きる「人」の世界も中間辺りにある。我々人界の一つ上にあるのが「天」の世界である。 所謂天女達がいるのがこの世界にあたる。
この「天」の世界をさまざまな段階に分けてた中に、「九天(きゅうてん)」という分類があり、その「九天」の最頂上を「有頂天」と名付けている。
この世界・境地に昇れば、どの様な望みも叶えられるとされ、俗に言うフキフキとした気分の世界のようだ。そこから、得意の絶頂にあって夢中になっている様を、俗に「有頂天」というわけである。
しかし、この「有頂天」にしても、先程の「十界」からすればまだまだ仏に到る過程であり、修行を怠ればたちまち下の世界に落ちてしまう。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。
「有頂天」になっているときこそ、心引き締め精進する気持ちを忘れないように、でないとすぐに、双六(スゴロク)でいう振り出しに・・・。
” ご用心 ご用心 ” |
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16【安心(あんしん)】
本来は、〈あんじん〉と濁って読み、仏の教えによって心の安らぎを得て、動揺すること無い落ち着いた心持ちを言った。
ということで、現在普通に使われている〈安心/あんしん〉よりも、もっともっと深く、日常的な使われ方ではなかった。
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15【有り難い(ありがたい)】
現在の使われ方としては、言うまでもなく感謝の意を表す表現になっている。
その言葉の始まりとしては、法華経(ほけきょう/釈迦が説いた教典の一つ)に、「是の諸の菩薩は甚だこれ有り難し」というとこから来ていると言われている。
もともとは、「有ることが難し」、「めったに会うことができない」という意味だった。つまり、普通にはあり得ない程の事、難しい事をしてもらった時に使う言葉であった。
まあ しかし、そんな大層なことでなくても、人に何かしてもらったら、「ありがとう」というのが良いとは思うが。 |
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14【融通(ゆうづう)】
宇宙全体、森羅万象、世の中のありとあらゆるものは、それぞれが孤立しているのではなく、互いに作用し、通じ合い、支えあって調和を保っている。そのことを、融通無碍(ゆうづうむげ)といい、教典に説くところの一つの世界観である。
辞書を引けば、「融通」とは、別々のものが融け合い、通じ合い、互いに合い合わさって完全となることをいう。
極普段使う「融通のきく人」というと、理解のある人・・・。ぐらいに使われているが、本来は自分の気持ちに我がままがなく、多くの人々とよく調和ができる、非常にバランスのとれた人こそが、融通のきく人といえるのである。
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13【億劫(おっくう)】
正しい読み方としては、「おっこう」である。
仏教でいうところの「劫(こう)」とは、きわめて長い時間の単位のことをいう。その時間の長さを表す喩えの一つに、
「縦・横・高さが40里(1里=約4q)もある石山に、百年に一度天女が舞い降りてきて、衣の袖で石山の表面をなでる。それを繰り返し、ついにその石山が全てすり切れて無くなってしまうのにかかる時間を一劫という・・・」
ということで一劫とは、きわめて考えにくい譬えでしか言いようの無い、長い時間である。
「億劫」とは、その一億倍の時間のことをいう。つまり、無限・永遠ともいうべき時間のこととなる。
そんなとんでもない時間の事を考えると、気が遠くなり、どんなものなのかと考える気がせず、面倒になる。つまりそんな状態のことを、〈億劫〉というようになった。
〈億劫〉からすると我々人間の一生の時間は、なんと言ったらよいのだろか・・・?
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12【ひどい】
「なんとひどいことをする人なんだ。許さないぞ・・・。」
となると、どんな悪いことをしたのだろうということになる。その実、辞書によれば、むごい、残酷、甚だしい、ということのようだ。
仏教語としての意味合いも似ていて、漢字にすると「非道い(ひどい)」である。非道(ひどう)とは、人間以下の世界〈地獄・餓鬼・畜生〉をいう。 よく言う「あんた最低・・・」ということばが聞かれるが、〈地獄・餓鬼・畜生〉の三悪をいうので、ワーストスリーといった方が適切かも。 |
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11【後生(ごしょう)】
「後生だから今日のところは勘弁してください・・・」などと使われます。これは仏教でいうところでは、死んだ後、死後ふたたび生まれ変わること(後の世)のことをいう。
ということなので、上の譬えの文を正確に言うならば、
「私を助けるという善行をして、得を積むならば、あなたの後生(次に生まれ変わった世)はより良い安楽なものにまりますよ。だから私を勘弁した方がいいですよ。」、と言うことになりましょうか。
何とも恩着せがましい言い方ということになります。 |
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10【相続(そうぞく)】 |
一般的には、「遺産相続」とか「家督相続」とかその家の代替わりの時などによく使われる言葉である。
この言葉は、お経の中にもよく出てくるもので、元々の意味としては、物事の原因と結果、いわゆる因果が相連続して断絶しないことをいった。
物事の起こりとは、何かの原因があり、その結果が出て、またその結果が原因となって次の結果につながっていく。 そんなことの繰り返しというか、継続的な事を相続といったのである。
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9【千秋楽(せんしゅうらく)】 |
「千秋楽」と言ってすぐに思い浮かべるのが、相撲の最後の日のことではないだろうか。
奈良時代の頃の貴族社会では、何かの大祭や法要を催した時、その一日の終わりには「千秋楽」という雅楽(日本古来からの皇室系・神道系の祭祀用の歌舞)の曲が必ず演奏されたそうである。
そのことから、芝居や相撲の興行期間の最終日をこのように言うようになったようである。
〈仏教用語ではありませんが、豆知識として載せました〉
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8【ウロウロする】 |
「広辞苑」をひくと、「方向が定まらず、または、どうしたらよいのか分からず、落ち着きなく動き回るさま」とあり、「うろうろ船」、「うろうろ眼」などと使われるようだ。
さて、仏教では、迷いのある人のことを「有漏(うろ)」といい、迷いを全て除き尽くした人のことを「無漏(むろ)」といっている。
迷い・煩悩は、人間の肉体的な本能や、元々からある潜在的な意識から、知らず知らずのうちに漏れ出てくるものといわれる。それで、迷い・煩悩のことを別の言い方として「漏」といわれるようになった。
ということで「有漏有漏(うろうろ)」とは、完全に迷い・煩悩の世界にドップリとつかっている様子、姿をいうのである。
近くにウロウロしている人がいたら、「カーッツ!」と気合いを入れてやってください。
但し、潜在的意識の中から出てきている事だとしたら、ちっとやそっとでは無理かもしれませんが・・・・。 |
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7【学・無学/がく・むがく】 |
「学」とは、有学(うがく)のことで、〈学ぶべき事がまだまだ有る〉ということです。仏教の真理がまだ得られず、それを究める為に修行すること、学ぶことが有るということです。
それの対して「無学」とは、真理を究めつくして、迷える心を断じ終り、更に修学すべきことがないことをいいます。
本日から、貴方は人に「学が有りますね・・・」と、言われたら。 「失礼な・・・」と、思い。 「なんと無学な人なんですか・・・」と、言われたら。 「どうもありがとうございます・・・」と、言ってみましょうか。
このことを知らない人は、きっと変な顔をするでしょうね・・・。 |
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6【愚痴/ぐち】 |
なかなか思うようにいくことばかりではないこの現代の世において、よく出てくるのがこの「愚痴」です。 この「愚痴」、実は私達を迷いの世界にとどめる煩悩の一つなのです。
語源の意味からすると、現象に惑わされて真実をわきまえないということで、煩悩の中でも横綱級に分類されています。
現実社会に生きているものにとって愚痴は、日常茶飯事的な事かもしれませんが、それを言うたびに仏への道が遠のくのだと思い、なるべく言わないようにしたいものです。 |
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5【入院/にゅういん】 |
ふつう、入院と言うと病気を治療するために病院に入ることかと思う。しかし、仏教の世界では少々違う。
そもそもこの「院」とは、垣根をもって囲んだ大きな家、その所の事を院といい、中国唐時代の末期頃には○○院として寺の名前に用いられるようになる。
そこで、仏教語としての入院の意味はというと、寺に住職として初めて入る事をいうのである。
普段入院と聞くと、どうしたのかしら・・・? と心配するが、 仏教の世界では、その修行の成果が認められ、寺を任せられる様な段階になったということで、逆におめでたいと言うべき事なのです |
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4【往生際/おうじょうぎわ】 |
「なんと往生際の悪い奴なんだ」、「罪を認めてさっさと往生しろ」等とよく使われることばである。
この「往生」の「往」とは、”先に向かって行く、過ぎ去る”の意味があり、「生」とは言うまでもなく、”うまれる、いきる”ということである。
そのことから仏教では、この世を去って、他の世界に生まれかわることを「往生」といっている。 本来の意味からいうと、”生まれかわる”というところが重要な意味を持つのである。
ところがこれが転じて、@死ぬこと Aあきらめて、おとなしくなること Bどうにもしようのないようになること C困り果てること、などの意味に使われるようになってしまった。
仏教における人の「死」は、「往無/行って無くなる」事ではなく、あくまでも「往生/行って生まれる」事である。
また、こちらの世界に残った我々が、亡き人のことを思い、仏の世界に生まれ変わようにと祈るのが「追善供養」である。
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3【達者/たっしゃ】 |
今では、「あの人は喋るのが達者だね・・・」という具合に、ものごとの上手なことをこんな風に言ってみたりしますが、本当の意味は、その道の奥義を極めた人でなければ、この言葉には値しなのである。
本来は、「真実を極めた人」・「仏道に深く達した人」をこういったのである。
また、健康なことを「達者」という。これは、いろいろなものことがよく分かり、自己管理がしっかりとでき、それ故身体が健康でいられる人、というように転じたのかもしれない。
本来的な意味を考えると、滅多に使える言葉ではないが、そう堅く考えず、いろいろ事が〈達者〉で、〈達者〉な人間がいいですね。
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2【皮肉/ひにく】 |
仏教では、身体のすべてを、また、宗祖と呼ばれるような人等の信念・思想・行為などのすべてのことを「皮肉骨髄/ひにくこつずい」といった。
この「皮肉」は表面的な形相(容姿や形)、「骨髄」は内面的な人格等をさすのである。
また、仏教の根本的な奥深い真理を「骨髄」、比較的軽い表現の枝葉的な事柄を皮肉という。
これから転じて、相手の内面的な心の底にあるあるものを正面から批判するのではなく、表面だけをチクリと刺すような、遠回しな避難の仕方を、「皮肉」というようになった。
時には、「骨髄」よりも「皮肉」の方が相手にはきつかったりして・・・ |
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1【不思議/ふしぎ】 |
「不可思議/ふかしぎ」の略。仏の悟りの境地や神通力などが、通常の考えでははかり知ることができず、なんと言っていいのか口にも表現することもできないことを形容した言葉だった。
それと、数の単位を表すものでもあり、10の64乗。或いは一説に10の80乗とも言われ、世の中に出てくる数単位では考えられないような単位である。それ故、「不可思議」なのでしょう。
因みに、日本の国家予算等で出てくる数単位の「兆」は、10の12乗である。 |
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