住 職 ひ と こ と !
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このページでは、私の日常の中であったいろいろな事を取り上げ、
感じた事、思った事を綴ってみました。
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「 久々の再会」
先日卒業以来初めてとなる高校の時の同期会が開かれた。
殆どの者達が卒業以来40年ぶりの再会、
・年取ったなあー
・あいつは誰だ・・・
・おまえ何にも変わってないなあー
・あの時おまえ・・・・だったよなあ
等々 なつかしい話に花が咲いての3時間 まあー 楽しい一時でした

そうした中、恩師との会話にて、
自分は今『終活』(下記参照)を始めているとのこと、横にいた同級生は先生まだ早いよ、と言っていたが、少なからずこの事に関わる職にある私はそうは思っていない。
本人の意志が、思いがはっきりと相手に伝えられる間にしておかないと、自らの思いとはおよそ違う方に進みかねない。
それで、先生が言うのには、
回りの者達になるべく迷惑をかけないようにしておきたい、
そしてもし事前に墓を建てることになったら、我が子ども達(後に墓守をする事になる者だけに限らず)を含め入れるようにしたいとのこと。
それは大変良いことかと思いますと話させてもらった
今時、あの人(姑等)が入っている墓に入るのはイヤだとか、夫とは同じ墓には入りたくないとか
勿論いろいろな事情はあるでしょうが、それでなくとも核家族、少子化等で親子や、家族、一統が疎遠になりがちなのに、益々人と人の繋がりが無くなってしましそうで。大きな流れではあるでしょうがどうしたものかと考えてしまう。
と、言うと 恩師いわく、おまえの様な考えをもっと伝えていくべきだと言われた。
こちらがいくつに成っても、恩師にそう言われると、何やら昔の学校時代に戻った様な気がし、懐かしい感覚を思い出した。

同級生とのガチャガチャの話を含め、恩師の思いにも触れることが出来る大変有意義な一時となった同期会でした
◆ ◆ ◆ 終 活 と は ◆ ◆ ◆
「人生の終わりをより良いものとするため、事前に心構えを含めいろいろな準備を行うこと」
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「 質問箱」
境内の一ケ所に質問箱を置いてある。
なにか寺に関係する事で質問やら、要望やら、あれば書いて入れておいて下さい
というもの。
まあ、そんなには入らないのですが、先日それでもと覗くと一通入っていました
字からして多分子供さん(小学校生)と思われる。
書面には、
「どうして しんだら みんなが かなしむんですか」
と、書いてあった。

実のところこういう素朴な質問が一番答えるのに大変である。
まして相手が子供(多分)かと思うと余計である。
しかし、そのままにしておくわけにもいかず、考えたすえ
「人」という じ(字) で よくせつめい されますが、
おたがいに ささえあって たおれないようにしている これが「人」の じ です
ささえあっている たいせつなひとが いなくなるから かなしいんじゃないかな
と、書いて 質問箱の横に張っおいた。
数日してまた箱を覗くと また一枚の紙が入っていた。
答えに対する返答であった それにはこう記してありました。
「わかりました 人とゆうじが とても わかりました。
これからも じいじ を おねがいします。」

分かってくれたようで 良かったです。
” 何となくホットした感じ・・・ ”
皆さん方からも 何かありましたらお寄せ下さい。
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「 ところ変われば・・・」
メイン頁でも書きましたが、先月の20日に青森三沢にて研修会があり
行って来ました。
1泊2日 缶詰にてのお勉強は少々疲れました。
が、写真の様な素晴らしい雪景色を見る事が出来、静岡県人としては
大変感激して帰ってまいりました。
青森の方に、
「静岡では、1ミリでも雪が降れば、テレビ・新聞ものですよ・・・」
と、言うと
その青森の方は、絶対にあり得ないという顔をして、
「えーーそうなんですか!!!」
と、あきれ顔でした
静岡の方々ならば分かりますよね。
ところ変われば何とやら・・・
正にその通りです

(写真の赤信号から先が、八甲田山に入って行く道路です
この日から通行止めになたようです)
(泊まった宿の玄関前です)

(奥入瀬渓流も雪化粧です
5時間程かかる遊歩道があるようですが、
この日は10分程外にいただけで
凍死〈少々オーバー〉しそうでした)
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「 何とまあー これでは・・・」
★先日、彼岸中日法要が終わり、手伝いの上人方と会話していると、
本堂から太鼓の音が、
太鼓を叩くような人間はここにいるのにと思いながら、まあ子供がいたずらで叩いてい るのだろうと思い、まあいいかと思っていると、何度も叩き、止めようとする気配が無 いので仕方なく本堂に行ってみると、やはり子供がやっていました。
そしてよく見てビックリ !!!
その子供の後ろでは、その子の祖父と見られる人が携帯電話(ビデオ撮影かな?)を 構え撮っているのです。
私が、子供のおもちゃではありませんから叩くのは止めてくださいと言うと、
今度は祖母と見られるような人が 「この子はこれが好きでしてねえ・・・」
と、悪びれたそぶりも無く平然としている。
そうしている間も祖父は何のためらいも無く携帯電話撮り・・・
少々カチンと きたのですが、
グット堪えて言葉柔らに、しかし内容的にはかなり厳しく伝えました。
子供は訳も分からず面白くてやるのでしょうが、それを叱るどころか平然としている二 人の行動が私には理解できない。
本来ならば、きちんと教えてあげなければいけない立場の二人のはず
子供の教育論でいろいろいわれる昨今、学校ばかりが悪のでは無かろうと思う。
自宅で、地域で、そして教育の場で
育てていく事が大切であろうなと改めて感じた次第
貴方はこの話を読んでどう感じたでしょうか?
平成24年9月22日
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「 彼岸中日法要・・・」
★先月〈平成23年3月21日〉の中日法要では、参列した皆さんとご一緒にお経をあげ、沢山のお題目を唱えた。それは、自らのお題目の修行の功徳を持って志すとことのご先祖・ご霊位を供養するものです。
そして今年の法要では、地震災害にてお亡くなりになった方々へのご回向をし、心よりのお悔やみを申し上げた。
ご回向している最中、何とも胸が痛くなり、涙が溢れ、声が詰まってしまった。
自分は何が出来るのかと考えた時に、寺の玄関に募金箱を置き協力を願うこと。そして、僧侶として心よりの回向を捧げ祈ること。
他にも出来そうなことがないか考えていきたい・・・
平成23年 4月 1日
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「 成人式の日に・・・」
成人式のあった次の日に、境内に出ると、ある宅の墓に焼酎のビンらしいものがあがっていた。 その墓のお宅は2年程前に、高校を卒業するという子を亡くしているお宅なのでアルコールが供えてあるのはおかしいなあとフト思もった。 ただお墓に入っているのはその子だけではないから、前のご先祖へのものだろうと・・・。 それでも気になりそこまでいってよく見ると、あげられた瓶や間に
『祝成人』、また「僕たちは今日 成人式をしました これから頑張って人生を進んできます」 とも書かれていた。
2年前に高校を卒業する予定であった、ということは今年が成人式なのだ。
小学校時代の同級生がそのこの事を忘れずにいて、自分たちが式に参加した後、墓参して供えていったもののようである。 その心優しさに思わず涙が溢れてしまった。
日頃から私は皆さんに、「亡き方にはその人が好きだったもの、喜ぶものをあげてあげなさい。」
と、言っている。こうしたものこそ 心のこもった 亡くなった人が心から喜んでくれるものなのではないかと思った。
追(1/16)、なぜ気がつかなかったのか・・・
最初にこのボトルを見た時に何故、「いいちこ」 なのかなぁーと思っていた。
1週間近く過ぎた頃、そのお宅の法事があり フト思った。
この焼酎のコマーシャルソングからではと、
「・・・♪ また君に恋してる いままでよりも深く
まだ君を好きになれる 心から・・・ ♪」
もし あげた方々の意に沿わない理解であったら ごめんなさい。
もし、そうであったら 気付くのが遅くなりました。
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「 あなたが食べたい・・・ ?!」 |
題名からして何のこやら・・・?
人食い猛獣 はたまた人食い人種の話か・・・ さにあらず、
先日、70歳半ばになるお檀家の奥様が亡くなり、そのご主人とご長男が葬儀等の事について相談にみえられた。
ほぼ葬儀の予定も決まり、 ご相談ごとも問題なくまとまった頃 ご主人が亡くなった奥様との事を いかにも寂しげな顔をしながらポツポツと話し始めた。
その中で、 寝付いてしまった奥様に、最後に何か好きなものでも食べさせてやりたいと思い、訪ねたそうです。
「オイ おまえ 何か食べたいものでもないか あったら持ってきてやるぞ・・・」と、言うと
奥さんは、
「私は 今 お父さんが 食べたい !」 と、一言
それを聞いた ご主人は 流れ出す涙を止めることができなかったそうな・・。
そんな話をしながら 私の前でも ポロポロ涙を流してた。
「貴方を食べたい・・・」 一瞬何のことかと思ったが、
長い間にあった ご主人への感謝・愛情・信頼関係 等々いろいろな事がその一言に凝縮され 奥様の口から出てきたのでしょう。
貴方はこの話を聞いて どんなことを感じ、考えますでしょうか・・・?
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「 特急列車・・・ !」 |
先日、山梨県と静岡県の日蓮宗の僧侶達が集り、研修会が石和(山梨県)にて行われた。
2日間にわたり10時間の研修で ”結構大変” いやいや良い勉強になった。
その帰り、甲府から「特急ふじかわ」という列車に乗った。
特急というからにはどんなにスピードを出す電車かと思って乗ったのだが、
これが何ともユッタリと走るものであった。
外の緩やかに流れる景色を眺めつつ、
どこが特急なのかなと少々 イラッ! としたり 不思議に思ったりもした。
暫くそんな思いで乗っている内に フト考えた・・・
「そうかこの列車の「特急」というのは、 ”特別に急ぐ・・・” いうのではなく
”特に急がない・・・” と読めばいいんだと。 」 と、勝手に思った。
そしたら この列車のスピードもなかなか良いもんだと思えてきた。
勝手な解釈とはいえ、気の持ちようだなあと思った一時であった。
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「聞くも修行 喋るも修行 !」 |
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先日講演を頼まれ、1時間半ほど話をさせてもらってきた。 昨年に続き2回目である。
〈1度やれば次回は無いと勝手に思っていたので、前回話した事を細かく
記録してなかった。 これは困った・・・
皆さんには、正直に言い同じ事を喋るかも、と断って話し出した。〉

◆先方からの依頼書は次の様である
「・・・さて、本年も生涯学習の理念のもと 高齢者教室の充実を期し カリキュラムを作成し ました。つきましては下記により講師として講義賜りたく伏してお願い申し上げます。
・日 時:平成22年11月25日(木) 午前10時~11時30分
・場 所:はーよぴあ清水 6階 多目的ホール(清水区宮代町1-1)
・講義内容:「住職として思うこと・・・」
・受 講 者:本学(日知大学)構成員、60歳以上、女性270人 男性30人 計300人
◆1時間半というと、大学の1講義の時間であり、聞くのも大変であろうなと想像する。
それ故、なるべく堅い話にならないように、そして分かり易いように心がけたつもりである。飽きそうになった頃には冗談も入れながら話した。 それでも聞く方々にとってはご修行であったかと思う。
正に仏教で言うところの「聞法(説教をきくこと)の行」であったかもしれない。

それに対して喋る私はというと、多くの方々の前で話すとなると、それなりの準備がいるわけで、話をする側もご修行である。 このことを逆に、「解説(教えをとくこと)の行」いうわけである。
後日、「この前の話良かったですよ・・・(リップサービスだとしても)」 などという声が聞こえてきたら幸いなのだが・・・・?
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住職という立場上いろいろな人々と故人の供養、ご先祖の供養等の事について話を機会は多い。
その時私が話をする、或いはアドバイスをする基本的なものの考えは、
「その供養される人・ご先祖がどんなことをしたら喜んでくれるであろうか、また安堵してくれるであろうかを考えてみて下さい。自然に答えが出てきませんか・・・」というようなことを話しています。
勿論このことは人によってどう受けとめどう実行するかがそれぞれであることは言うまでもありません。いろりろな事を考えるようです。

例えば
*当たり前に法事供養・墓参りをする方。
*故人が好きであった物を仏壇に供える方。
*故人が旅行好きだったのでしょう、小さな遺影をもって故人が好きそうなところに旅行に行って来たという方もありました。
*それから今回特にご紹介したいのは、
亡くなったご主人が大変映画好きであったということから、供養の意味を込めて寺の客殿を使い、映画の鑑賞会をやりたいとのこと。 ユニークといってはその方に大変申し訳ないが実に感心した。
”きっと亡き主人は喜んでくれる” と、この奥様は考えたのです。
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平成19年1月20日(土) 妙蓮寺の本堂にて寄席が行われた。
主演者は、前座の古今亭ちよりん、二つめの林家ぼたん、真打ちで清水三保出身の三遊亭歌雀の三人さん。
会場となった本堂には溢れんばかりの人々が来てくれ、あたかも妙蓮寺演芸ホールと言わんばかりであった。
親子寄席と銘打ったこともあり、親子連れも見かけられた。

そして、チャリティーということで、参加費から清水の社会福祉事業団に寄付もし、皆さんに謝意を伸べ喜んでいただいた。
寺の本堂と言えばどの寺も法事と葬儀に使用される事が多いが、あのスペース・あの雰囲気それだけではもったいない。かといって変なことに使うことはご本尊は元より、役員方にも理解は得られないであろう。 しかし、今回のように親子・地域の交流をより良くする為のものなら。更に、チャリティーを目的の一つとしているならば、大いにやるべきと我は考える。
まだまだ何かをしたくてしょうがない今の妙蓮寺住職。
この意気込みが無くなったら、次の代に譲ることにしよう・・・。
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先日、京都宇治の平等院に行って来た。
新聞テレビ等でご存じかと思うが、平成の大修理(百年来)としてお堂内の仏像とその背後に有る光背、また上部にある天蓋等の修理が終わり、その一部が展示公開され、間近で見れると知り、なかなかない機会と出かけてみた。

そこで一つ、知らなかったというか「へえー」と思うわされることがあった。
それは、修理・修復といえば、汚れたところを綺麗にし、傷んでいるところを直し、できあがりは元通りのピカピカなものかと思いこんでいた。ところがさに非ず、傷んだところはこれ以上悪化しないようにする。 金箔がはがれてきそうなところは補う。等々の事で、金ピカにするなどというものではなかった。なるほど趣を残し、現状から悪い状態に進んでいくことをおさえようとすること、そして後世に伝えていくことなのです。
私の思っていた修理・修復とはまるで違う考え方だったので、少々驚かされ、そして良い勉強をさせてもらった。
「百聞は一見にしからず」 古人の言ったことは正にその通りであった。
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先日地元のFMラジオ(FM清水マリンパル)に出演してきた。今回で4回目なので大分慣れてはきたがやはり何やら緊張する。
話の話題としては、放送されるのが4月ということもあり「花まつり/お釈迦様の誕生日」の事、このホームページにも載せている「仏教用語のあれこれ」とかである。
その中でも一番話題になったのが、私の今後やりたい事であった。以前にもやっていたのだが、チャリティーでの催しものである。 今までにやったのは、お琴、尺八、津軽三味線、琵琶、香道、等々であった。本堂を使うことが多いのだが、境内を観客席にして野外でやったこともある。
寺のスペースは、勿論一般家庭とは違い、雰囲気・広さ等なかなか面白い空間なのである。 法事や葬儀だけではなく、いろいろな事で寺に来て欲しいと考えている。 ここ暫くやることができなかった、チャリティーでの催しを計画し、皆さんに楽しんでもらい、僅かでも人の為になればと思っています・・・。
などと あれやこれや話をして収録を終えた。
何か催しをやるときはこのホームページでもお知らせしますので、是非お誘い合わせにてお越しください。
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4月1日(土)に 境内にて「夜桜鑑賞」をやりました。初めての試みで、皆さんに楽しんでもらえばと思って計画したものです。
3月彼岸前から思い立ち、桜の芽の具合を気にしながらの開催日の設定でした。
ただ、彼岸中に急に暖かくなり、花が思いの外早く咲き出してしましました。4月1日開催はもう皆さんに知らせてしまい、日の変更はできず、当日まで花が持ってくれるか、気になって仕方ありませんでした。

開催日3、4日前は非常に強い風が吹き、花びらが大分飛んでいました。雨の日もありました。
そうこうする間に当日を迎えたのですが、ご覧の写真(夜でややピンぼけですが)のように何とか形を残し、皆さんに見ていただき楽しんでもらう事ができました。
皆さんが帰ったあと、桜をしみじみ見ながら「よく我慢強く残っていたくれたな。ありがとう。」と、心の中で素直に思いました。
植物に対してこんなに気をもみ、感謝したことはありませんでした。
植物だけでなく、広くは自然に対してもっと思いを込めなければいけない、大いなる自然の中に生かされている、という感謝と謙虚な心を忘れてはいけないと、今回の夜桜観賞をやってみて改めて感じた日でありました。
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ある研修会(寺関係)の帰りに知人に会った。いつも寺にいる時の格好と違っていたせいか、「どちらかお出かけでしたか?」、と言われ 「研修会へ行ってきました。」、と言うと、「お坊さんも研修ってするんですね・・・」と、言われ少々唖然としてしまった。
皆さんはどんな風に思われているのでしょうか? 坊さんというと、どうも話を・説教をするばかりと考えられがちなのかなとフト考えてしまった。
多くの人々にいろいろな話をし、伝えなければならい立場なので、人一倍いろいろなことを勉強しなければと思っている。〈 と、書きながら自らを叱咤しているのだが 〉
このホームページにもいろいろなことを書いているが、改めて発見することや、勉強になることも多い、これからもアクセスして下さる方々のためは当然の如く、自分自身の為にもいろいろと書いていこうと思っている。
どうぞ宜しくお願いします。
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” さて、上記で出てきた研修会のことですが・・・”
講演者は、ヴォイス・セラピー研究者であり、元民放のアナウンサーをされていた方で、演題としては、『声のもつ力』/サブ「声に心を乗せて」 「相手を想う心遣い」というものであった。 坊さんの研修会にしては、どちらかというと異色の部類かもしれないが内容的には非常に興味深いものであった。
講演の中で先生は、「声の持つ力は非常に大きなものがあり、時には痴呆性の人をも回復に向かわせ、心開かなかった子供が、自分の意見が言えるようにまで変えていけるものだと言う。」 実際に、先生はそれらの事を実体験としてお持ちで、非常に感銘深く聞かせて戴いた。
更に先生いわく、「和尚様方も、話を通し、お経の声を通し、人々に癒し、またその他の効果があるはずなので、その辺を意識して声というものを大切に使って欲しい」とのアドバイスも戴いた。
日頃から声を出すことが多い和尚として、声を出すことに意識をしていないわけではないが、改めて声の出し方、語りかけ方等を大事にしていかなければと再認識させられた。
追、最後の質疑応答の時間で、私がした質問。
「声、或いは喉の大切に仕方、ケアーの方法は? と、聞くと」
①睡眠 ②喉の乾燥に要注意 ③冬寝るときはマスクを ・・・とのこと
*日頃声を使うことの多い方々、参考までに*
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先日、「博士の愛した数式」という映画を見てきました。記憶障害をもった数学者を中心に進められていく物語でありました。
その映画のワンシーンで、博士が「数」の話をする。
「数の中には実際にはあり得ない数がある。例えば[√-1]、これを虚数という。この数を分かろうとするには・・・・・ここ ここ・・・」と、言って胸の辺りを軽く叩いてみせる。 要はハートで見るということらしい。 
このシーンを見ていて、あーこれは仏事ごとに通じるなと思った。見ようとしても見ることのできない、語りかけても返事のない、供物を供えても食べてくれない 我々の誰もがもっているご先祖さまのことである。 目で見ることのできない、存在の無いご先祖さまではありますが、博士が語る虚数と同じくハート、心でなら感じ取れるはず。
とかく我々現代人は、形のないもの、理屈に合わないことを粗末にしすぎるような気がしてならない。我々の存在を考えるとき、心のことを抜きにしては考えられない。 ご先祖の事、その他にも目には見えなくても大切にしなければならないことがありはず。
ふと、心静かに考えてみましょう・・・。
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平成18年、「戌年」の始まりはいかがでしょうか。
昨年は、悲惨な事件や事故、そして災害等が数々あり、あまり良い年とではなかったのでは。 そんな気がしているのは、私1人では無いのでは・・・。
昨年一年を表す漢字として、「愛」ということのようですがどうなんでしょうか? 「愛」ではなく、「ねじれた愛」ではなかったかと、ある新聞のコラムに皮肉って書いてあった。 私もそんな感じがした、が少し考え方を変えると、こんな世の中だからこそ 「愛」ということが大切なんだ、との教えとして受け取るべきかとも思った。
今年こそ、昨年の様な悲惨な事件が起きないよう、本当の意味で皆が納得する、「愛」を持った年にしたいものである。
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別にいつとも決めていないのですが、どうかすると寺の門の前に立ち、気持ちをいつもの住職から、一般壇信徒になったような心持ちで門を入る。
誰でもそうかもしれないが、見慣れてしまった物は、それが譬え壊れていても、汚れていてもフト気づかず、見過ごしがちである。
まして寺の一室でうまれ、それこそ乳飲み子の時からこの寺で暮らしている小生にとっては尚更である。
訪れた方々に、なるべくに気持ちよくお参りしてもらいたく、時々心一新して門を潜ろうと思っている。
お参りに来る方々へ、
前に来た時と何処か変わっていないか探してみてください
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先日ある方の車に乗せてもらった。 その時運転をしていた方が、チョット聞いてもいいですか、というので何でしょうか私で分かることならば、と答えると、
「仏さんって本当にいるのですか・・・・?」とのこと
正直言ってこの手の質問が一番答えにくい。
というのは、その人は初めて会う方であり、どんな人なのか、どういう意味で聞いているのか、信心ごころが多少でも有るのか、全く無いのかで答えかたが微妙に変わるからである。
一瞬考えて、「それは、有ると思えば有るし、無いと思ったら無いですよ・・・」
運転手の方は、「あーやはりそうですか・・・」と、言ってうなずいていた。
この答えで この人は納得したのかなと思いながら、もう一言付け加えた
「仏の有る無しは、その人の信心によるもので、実際
形として見えるかどうかということではないですよ。 それから信心というのは、人から押しつけられるものではなく、何かの切っ掛けや、縁で芽生えるものですからね・・・」と、
こんな短い時間、短い文面では勿論十分な説明はできませんが、現代人の掛けていると思われることの一つに、形無きものをとかく軽んじがちだということです。今回書いた仏のこと、誰にでもあるご先祖のこと、人を思いやること、言い出したらきりがありません。
さて、貴方はどうでしょうか・・・?
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先日あるお宅の通夜に伺った。 ご主人はまだ現役の方、亡くなった奥様は60代ということもあってか、お悔やみに訪れた方々が非常に多く、一様にその奥様の死を悼んでいるようだった。その人、その家の方々の日頃のお付き合いの良さが察しられた。 昔からよく「棺おうて 事定まる」、と言われる。棺に納められ、本人は何もすることができなくなった時に、遺族を始め親戚、近所、友人がどの様にして送ってくれるのか。その人の一生の生き様が映し出される。
「人なんかどうでもいい。オレの葬式なんか適当でいい・・・・」、と強がるヘソ曲がりもいるかもしれないが、自分の葬儀は自分ではできないのである。形はどうあれ、人の手を煩わせなければできるものではない。やはり人は自分以外の人達を大事にしていかなければならないようだ。

失礼ながら、今貴方が他界するような事になったら、回りの人々はどの様に貴方を送ってくれるだろうか? どの様な気持ちを込めてくれるだろうか・・・?
、と書きながら我自身もよく考えてみることにしよう。
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皆さんご存知の通り、7月、8月はお盆であり、寺も非常に忙しい時期である。 このお盆は、自宅の仏壇にお経を上げる「棚経」という習慣がある。(寺、地域よってまちまち)
今年の棚経の最中のことである。あるお宅というか、ある地域をお経に回っていると、ふと気がつく事があった。それは、私が仏壇前にてお経を始め出すと、その家にいる人達がぞろぞろと集まって来て、お経を上げている後ろにて皆正座をし、手を合わせているのである。子供、孫、更に来客で来ている人達まで集まって来る。その内に部屋中に人で一杯になってしまうお宅もあった。1軒、2軒ではなくその地域のお宅が殆どそうなので驚かされる。改めて地域習慣ということを考えさせられた。 ところで通常のお宅はというと、その家の奥様が一人座っていれば良い方である。
核家族、少子化が言われる現在、仏事ごと、習わし、文化を次世代に伝えるのが非常に難しくなってきた。今紹介したような地域では、知らず知らずの内に子へ孫へと大切なものが伝えられていくのであろうなと感じた。
成人してから教えてあげればいいやと思わず、幼い頃からいろいろな大切な事を何気に伝えてあげたいものである。
「三つ子の魂百まで」 「鉄は熱いうちに打て」とか・
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先日、法事の時のことである。20人位の参列者が本堂に上がり追善供養が執り行われた。
お焼香も終わり、法要も半ばを過ぎた頃、1人の子供が御寶前(ご本尊の前)をフラフラと横切っていった。まあ一度くらいは・・・と見過ごしていると、またまたその子がちゃろちゃろとご本尊の前をふらついた。 法要の最中、ご本尊と導師(住職)が相対しているところを ちょろちょろするのは子供であってもやってはいけないこと。 もし貴方が、誰かと向き合って話をしている時、その間を誰かが通り抜けて行ったらどうだろうか? なんと失礼な人だと思うのではないだろうか。 訳の分からない子供のことなのだから、と思われる方が多いかとは思う。その通り、子供は分からないのだから、と私もそう思う。
しかし、そんな時に気遣いをしなければいけないのが、常識を知っているであろう大人ではないだろうか。もっと言えば、大人の責任なのではないだろうか。
躾にもならないような言い方で、「何々ちゃん ダーメヨ・・・」なんて言うのはまだ良い方で、何も言わず笑っているような人達もいる。
訳の分からない場に来て大迷惑の子ども達かもしれないが、次の世代になってご先祖の事を守っていくのは、また法要への参列の仕方を伝えていくのはこの子達なのだから。
「鉄は熱いうちに打て」のことわざではないが、小さい子の内から悪いことは悪いと教えながら、上手に導いてやって欲しい。 ものの教え方に、「背中で教えると・・・」いうことがあるが、子供だけでなく我々大人も自分自身の事を今一度振り返って見る必要があるのかも・・・。 ・・・
と、書きながら自らを振り返る我であった。

〈上のイラストは、住職の容姿とは無関係です。〉 |
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