妙蓮寺境内の一角に祀られる
かい うん みょう とく い な り だいぜんじん
『開運 妙徳稲荷大善神』 について |
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昔から妙蓮寺には「お千代→ちよぼう→オチョボサン」という狐がいて、これが大変有名なイタズラ狐だったそうです。
それで妙蓮寺のお稲荷さんのお堂に祭ってあるのは、イタズラ狐のオチョボサンだと勘違いしている人が多いようです。そこで今回はその妙蓮寺のお稲荷さんについて話してみます。
昔江戸の町で多いものというと「伊勢屋、稲荷と犬の糞」といって、お稲荷さんが多いものの一つに数えられていたようです。このお稲荷さんは当時武士の間で信仰されていて、我々一般とはあまり馴染みのないものでありました。しかし、お稲荷さんが開運とか厄除けの神として信仰されていたこともあり、次第に民間へも浸透するようになっていきました。そうなりますと、商売繁盛とか衣食住の神としてあちらこちらで祭られるようになったのです。
そこで先に言ったように「伊勢屋、稲荷と犬の糞」というように沢山の場所で祭られるようになったのです。八百屋町といわれる江戸の町に三万を越えるお稲荷さんがあったと伝えられています。こうしたわけで、開運とか厄除けとかいうことで現在まで伝えられてきたわけです。 |
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しかし、このお稲荷さんは字を見ますと「稲 なり」ということで「稲」がなるということで、元々は農家の人々が農作物の実り、五穀の豊穣を祈って信仰していたものなんです。それが、開運、厄除けということで武士に伝わり、更には一般の人々にまで広まっていったということです。
このお稲荷さんには、仏教系のものと神道系のものがあり、いわゆる寺で祭ります仏教系のときには「大明神、大善神」とか「神」が付き、守護神として祭るわけです。神道系では、そのものがご神体となるのです。その大元となるのが京都伏見大社のお稲荷さんです。
そして、妙蓮寺のお稲荷さんですが、「開運妙徳稲荷大善神」と書いてあるお札がご神体としてあり、昭和28年11月12日当山の御会式(日蓮聖人を偲ぶ式)の日よりお厨子の中に安置されてきています。 |
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一般的にお稲荷さんはお像の場合は、右手に稲を刈る釜を持ち、左手には刈った稲の束を持っているお姿が多いようです。このようなことからもお稲荷さんが農耕の神ということはお分かりかと思います。
それから、お稲荷さんという、赤い鳥居、赤い幟、そして狐ということでこの三つが揃っています。この狐が必ずといっていいほど揃っているので、お稲荷さんというと狐、狐というとお稲荷さんということになってしまったようです。そこで妙蓮寺ですと、稲荷堂にオチョボサンを祭ってあるのだと思ってしまう原因なのです。お稲荷さんはお稲荷さんであり、狐は狐であることを認識してもらいたいのです。それでは狐は何かというと、お稲荷さん
の眷属(ケンゾク/お就き、家来)ということなのです。
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ここまでお稲荷さんと狐の話をしておいて、それでは妙蓮寺のお稲荷さんがどのような縁起があるかという事をお話します。
昭和20年清水に大空襲があり、それから4年経った昭和24年の7月に今の本堂がある位置に仮本堂(旧客殿)が建てられました。それから更に四年が過ぎた昭和28年7月に移動(旧客殿の位置)することになり、それに伴い正規の本堂建設の話が浮き上がり進み出しました。ただ工事が大変大掛かりになるのでやはりこれは神さん、仏さんのお力をかりなければということになり、当時筆頭総代をしていました、池上喜代松さんが身延で好意にしていました志摩の坊の佐藤日せん上人という方をお願いすることとなり、何日間に渡りお経を上げてもらったわけです。そうするとその満願の日に佐藤上人の前に見たことのない神様が現れ、その神様の言われるのには「わしが守ってやるよ、本堂が立派にできるようにわしが力をかしましょう」と、お告げになられたそうです。「これで念願が叶った、どうか宜しくお願いします」と、佐藤上人は喜び、そしてその神さまに「それにしてもあなたはどのような神様ですか」と訪ねられると「わしは大昔から、辻、江尻、庵原をおさめ、豊年満作にと守護する稲荷明神である。しかし、わしを誰も祭ってくれる者もなく、社もない、そして定まった名前もないのだ。もし妙蓮寺でわしを祭ってくれるなら、そして名前も付けてくれるなら、この本堂の建築が立派にできるように守りましょう」と言ってすっと消えたそうです。そこで佐藤上人が建設委員の人たちのところに来て、「実は満願の日にお稲荷さんが来て、社を造ってくれ、名前を付けてくれ、そうすればわしがきっちりと妙蓮寺の本堂ができるように守りましょうと告げられたが。どうでしょうそのお稲荷さんを祭ってみては」と言われ、そういう事であるならば早速祭りましょう、ということになり、昭和28年に「開運妙徳稲荷大善神」と名前を付け、そして社も造りましょうと約束をして、その名をお札を書いて仮本堂にお祭りをしたのです。それが昭和28年11月12日の妙蓮寺の御会式(オエシキ)の日でありました。 |
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その後そのお稲荷さんにもっと力を付けてもらおうと、たびたびお経も上げたという事です。それから暫く後、いよいよ本堂の寄付金が始まりまして昭和37年に1年間の月日をかけて完成を見るわけですが、その間何の事故もなく無事に工事が完了しました。これは本仏・お祖師さまのお陰は勿論でありますが、お祭りした妙徳稲荷のお力添えがあったからだと大喜びをしたということです。
そしてその翌年山門を造り、昭和39年9月29日に落慶大法要を執り行うこととなるのです。そして10年前の約束となっていました妙徳稲荷の社を造りましょうということになり、昭和38年11月の御会式の時に本堂に安置してあったお札をそのお堂に移したのです。これで10年越しのお稲荷さんとの約束が果たされたのです。ただ、そのお堂ができると人々が、「妙蓮寺にお稲荷さんができたそうだよ、オチョボサンを祭ってあるらしいよ」と、間違って言っている人がいたそうですが、そうではなく今お話しました通り「開運妙徳稲荷大善神」を祭るものだということです。こうした経緯があってできましたお稲荷さんですから妙蓮寺としては大変謂れのあるものなのです。
最後になりますが、先にも言いましたが昔はこの辺では「妙蓮寺のオチョボサン」とかその他にも「一本気のゴロザンサン」「あいなんじょのオキクサン」「妙泉寺の黒狐」「浄春寺のマダラ狐」とかイタズラ狐が大変多かったという話しですが、妙蓮寺に「開運妙徳稲荷大善神」とお稲荷さんをきちんとお祭りしたので、その眷属であったこれらの狐のイタズラが治まったのではとも考えるのです。以上お話してきました様な縁起にて妙蓮寺に「開運妙徳稲荷大善神」が祭られることとなったのです。
平成4年11月20日 信行会(寺の勉強会)にて、
妙蓮寺第29世 住職 笠井照道上人の講話より
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